近松門左衛門『出世景清』の「物の哀れの限り」を分析する理論的型
景清は身を悶え泣けどさけべどかひぞなき。神や佛はなき世かの去りとては許してくれよ。やれ兄弟よ我が妻よと鬼をあざむく景清も。聲を上げてぞ泣きゐたり。物の。哀れの限りなり。(近松門左衛門全集、第一巻『出世景清』298面)1
(訳)景清は身を悶える。泣いても叫んでも無駄である。この世には神も仏もないのか。だとしても許してくれ、我の兄弟よ、妻よと、鬼も怖がる景清も声を上げて泣いていた。これ以上物のあはれを感じさせる光景はないだろう。(強調は引用者)
はじめに
平安『源氏物語』の時代から生じたと言われる概念「物の哀れ」(もののあはれ・もののあわれ、前者は歴史的仮名遣い)は、日本の美意識として各時代を経て変容してきた。先史時代の「誇張」飛鳥・奈良の「模倣」平安の「雅」鎌倉の「忍」室町の「幽玄」安土桃山の「絢爛」江戸の「粋」「奇想」などの美意識が日本文化・芸術史のパラダイムをこしらえたが2、「もののあわれ」は「1000年にわたる日本人の美意識の中核」3と言われるほどの強い影響力でその根底を基づいている。日本精神研究者のパク・ギュテは現代の日本社会にも「もののあわれ」は「日本文化の核心にしかれて」いる「個人の次元を超えた共同体の共通感情」として有効に作動すると述べている。4 とても抽象的で「雰囲気、情趣、悲しみ、しみじみする」などの言葉の連想でしか近づけない、そして時代にわたって意味が変わり、個人の情緒、社会イデオロギー、主客逆転の哲学などが混在しているこの概念を、短い分量で網羅するのはまさに不可能である。
従って本稿は「新浄瑠璃」の始まりと言われる近松門左衛門の『出世景清』のクライマックスに登場する「物のあはれの限り」という表現に注目して、近世に復活した「物の哀れ」精神の端緒を見つけようとする。平家物語の連続上であった武士景清のプロットを、近松は少しづつ変えながら「物のあはれ」を上記の引用のように誕生させた。これの意味を釈明するため本居信長の「文芸の自律性」などが適用できる。私はこれに加えて浄瑠璃が「公演芸術」であることに注目し、古代ギリシャ悲劇に関してアリストテレスが説明した概念「カタルシス」を持ってこの劇的な場面を説明したい。運命の矛盾に向き合い自己破滅に至る主人公をみると、当時の観客が社会道徳や共同精神より自分の感情移入と解消を深く感じただろうと思うからである。『出世景清』とギリシャ悲劇『オイディプス王』の微妙な関連性も共に指摘したいが、その前に葛藤の絶頂に至るまでの本作の粗筋と「物の哀れ」論の変遷を簡略に理解する必要がある。
1 浄瑠璃『出世景清』
歌舞伎、能と共に日本の3大伝統劇と呼ばれる人形浄瑠璃あるいは文楽は、17世紀にその形式が確立され今まで続いている人形劇であるが、元々は韓国の伝統文化「パンソリ」のように語り手の歌と話だけで行われた。しかし17世紀後半、物語を朗読する「太夫(たゆう)」・中国から伝来して現地化された弦楽器「三味線(しゃみせん)」の音楽・日本の古代から続いてきた「人形」の操りが結合して人形浄瑠璃が世間の注目を集めた。5 この「語り物の戯曲化」という大きな変化に積極的に貢献した人が作曲家・演奏家の竹本義太夫である。彼は当時まで流行した多様な浄瑠璃を自分のスタイルで吸収・再創造し、1684年竹本播磨掾の強さと嘉太夫節の優美を合わせて「義太夫節」を成立させ大坂道頓堀に「竹本座」を建った。6最初の純粋な義太夫節作品として公演されたのが作家の近松門左衛門との共同作業で作った1685年の『出世景清』であり、この作品は当時までの「古浄瑠璃」と以後の「新浄瑠璃」を分ける基準となった。新浄瑠璃、即ち『出世景清』以後の人形浄瑠璃は当時狂言と呼ばれた人間劇の歌舞伎へ台本・役者の動き・三味線の音楽などの影響を与え合った。しかし人間が直接現れる歌舞伎に比べて、人気を集めることができなく衰退した竹本座は1771年終わるが、1805年登場した上村文楽軒の「文楽座」が第二次の浄瑠璃流行を呼び起こした。5これで「文楽」という別名が人形浄瑠璃に付けられることになった。
近松門左衛門は1653年武士の家の次男に生まれ、京都の公家の武士として働きながら浄瑠璃などの芸能に関心を持ち始め徘徊を習った。ほぼ同じ時期に主君と徘徊の師匠が死になり、彼は近松寺(ごんしょうじ)に入って浄瑠璃を書きながら自分の名も「近松」と付いたと思われる7。彼の時代物と世話物はそれぞれの魅力を持っているが、近松時代物の特徴として忠を優先とする伝統的な武士の心を継承したことが指摘される。7 平氏と源氏の戦いを描いた『平家物語』と背景が繋がる『出世景清』も彼の初期時代物であり、主人公の武士景清は確固な忠誠心を持ち主君側の平家の復讐のため源頼朝を殺そうとする。(最後の五段目、景清は結局頼朝に屈服してしまうが、これは以前までの彼の英雄性と矛盾するという問題が指摘された。8)しかし、本作は世話物の特徴とされている男女の愛、特に当時厳格に禁じられた不倫が描かれておりさらに新しい魅力を持つことになる。これが古代からの言葉「もののあはれ」が世話風に再び現れる契機となったであろう。『出世景清』のあらすじと本稿で注目したい部分は以下のようである。9 10
平家が敗北した後にも生存した武士の景清は、敵の源頼朝に復讐する欲で憤慨している。その中ふたりの女性が彼と愛を交わす:公式的な妻である小野姫(おののひめ)、そして花柳界の阿古屋(あこや)であり、阿古屋との間には2人の男の子まで産むことになる。不倫が認められなかったあの時代に、景清を捕まえるとする阿古屋の兄の伊庭十蔵(いばのじゅうぞう)が彼女に申告を説得するが、本妻の小野姫が景清に渡った愛情の手紙で怒ってしまった阿古屋は景清を告発する。逃げ出した景清は、別の理由で危険になった小野姫を救うため、自分から姿を表して牢に入る。罪悪感で身を悶えた阿古屋は、子供2人を連れて牢の面会へ謝りに行くが、彼女に裏切られた気持ちと頼朝への復讐が霧散になったのへ絶望した景清は決して謝りを受け止めない。阿古屋は景清の目の前で子供たちと自分を殺すが、囲まれた景清はこの前掲の「物のあはれの限り」のクライマックスをただ見るしかできない。怒りで牢を壊し出た彼は伊庭を殺し、また牢に入って斬首形に向かうが、観音の恩で復活することになる。しかし、彼は頼朝への復讐心を消すため自分の目を掘ってしまう。
源平戦争は1180年から1185年に起こった事件であるため、景清の伝説は『平家物語』の始まりから500余年間編集・増幅して、1人の実存した人物というよりは「平家残党の集約的人物」に化した見解が主となっている。11 従って日本的武士の一つの原型として「景清」のイメージは『出世景清』以前の多数の古浄瑠璃と伝説として消費されてきたが、批評家の山本吉之助と同志社大学の早川久美子は本作以前の古浄瑠璃に比較できる近松が断行したプロット変化を発見する。9 12 私はこの二つの変化が「物のあはれ」と直接連結されると考える為、ここで原文を紹介したい。
『出世景清』の独特さの一つ目は、本作以前の古浄瑠璃には阿古屋と景清の直接対面の場面がないことである。元々の作品に、阿古王(阿古屋の原型)は夫を二度も訴えるただの「悪人」として描写され、彼女の子供らは憤慨した父の景清によって殺される。阿古王は子供たちの死の後二度目の告発をするが、頼朝は人情もない人だと言い阿古王を処刑する。古浄瑠璃と本作で子供たちが殺される場面は以下の通りである。自分の子供を殺す理由は二つとも相手にあると抗弁するが、前者の父親は怒りで、後者の母親は謝りで自分の子を殺す。
弥若よ、殺す父な恨みそ、殺す父は殺さいで、助くる母が殺すぞや、同じくは兄弟共に、閻魔の庁にて父を待てというままに、心元を、一と刀、あつとばかりを最後にて、兄弟の若共を、三刀に、害しつつ・・・(古浄瑠璃)12
許してたべこらへてたべ。明日からはおとなしう月代も剃り申さん。灸をもすゑませう。扨も邪慳の母上様や。助けてたべ父上様といきをばかりに泣きわめく。ヲ、理よさりながら。殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるゝぞ。あれ見よ兄もおとなしう死したれば。お事や母も死なでば父への言譯なし。いとしいものよよう聞けと。(本作、全集一巻297面)1
二つ目に注目したい場面は、伊庭を殺害した後、再び牢に入ることになった後の景清の心情である。早川が適切に強調している通り、本作と先行作品の景清は再び牢に入り読誦をするのは同じだが、先行舞曲の景清はとても混乱して屈託をもっており、本作の景清は「菩薩の変化」が言及されるまで悟りに達したーもしくは自分の感情をあえて削除したーことが確認される。9 最初の牢入りは本作でも先行作でも景清に相当の心乱れを与えたことを見ると、「物のあはれ」を呼び起こすため近松が決行した脚色の効果がさらに具体的になったことがわかる。
これより四国、西国へも落ち行かばやとは思へ共、・・・心と死をしたりける、彼景清が心の中、何にたとへん方もなし。(舞曲)9
思ひ定めて立歸りもとの牢屋に走り入り。内より貫木しととゝ締め。千筋の縄を身に纏ひさあらぬ體にて普門品。讀誦の聲はおのづから。卽身菩薩の變化ならんと皆奇異の。思をなしにける。(本作、全集一巻300面)1
「近世の物の哀れを始めて鮮明に主題化した」と評価される『出世景清』は近松が始めて「物のあはれ」の表現を使った戯曲である。パク・ギュテはこの場面が近世の物の哀れを理解するのへ最も重要な部分であると述べている。4 この「最も重要」な場面、そして上述のプロット的装置が、どんな、どう「物の哀れ」を発生させたかを分析する為、次の節では歴史的に主張されてきた三つの「物の哀れ」論が上述の二つの場面に合致するのかを確認する。
2 少なくとも三つの「物の哀れ」
「うつくしい」「きれい」などの日本美的観念の時代推移を追跡した高橋浩伸の研究3によると、「もののあはれ」の意味は少なくとも三つの段階に変化してきた:1000年頃の「しみじみした内省的て繊細な情趣」、本居宣長が復活させた「四季の移り変わり眺めて感じる情趣」、現代の「粋な様子をすること」がそれらである。この説明たちはそれぞれある程度の共通点(「情趣」等)と共に、微妙な違いも持っている。従って時代順にその変遷を追うよりは、哲学的・倫理的・社会学的観点から「物の哀れ」を分析しながら『出世景清』を説明してみるのが効果的であろう。
2.1 哲学的「物の哀れ」:混じり合う主体と客体
国学者の本居宣長が「物の哀れ」論を始めて唱える前は、「もの」と「あはれ」はそれぞれ日常用語であり、いろんな和歌に使われた。本居によると元々「あはれ」は自然にでる感嘆詞であり、せめて悲しみ「哀」だけを意味する言葉ではなかった。ここでは「もの」によって「あはれ」と嘆声を自然に出すという基本的な構造だけに注目してみたい。そうすると主体である人間の心と、客体である自然や状況ー「もの」ーの強い影響が、ほぼ同等な主導権を行うことがわかる。すなわち、「四季の変化と愛情の移り変わりに無常さと悲しみを感じる感情」としての物の哀れは、人間が「どうしようもない」と思って権力を失ってから成立される。近代ドイツ美学は確固なる「主体」を想定し「他者」の自然・芸術に「感情移入Einfühlung 」の形式で享受するのを想定することが多いが、大石昌史は「物の哀れ」はその「感情移入」とは確かに違って「対象や行為者を包摂した「場」の論理」であると述べている。13
この主体ー客体の対等と混ざりとして本作の「物のあはれの限り」を考えてみると、確かに牢に囲まれた景清は動けない状態・「どうしようもない」運命になり、これに順応しかねないことは確かである。この状況が特有の悲劇性を呼び起こし、景清のこの無力さが「物のあはれ」に繋がるのは十分認められると思う。しかし、彼の激烈な絶叫と全て終わった後のスッキリした自己削除は、上記の「物の哀れ」説明の中庸的な「無常さ」とはある程度の距離がある。もっと難しい問題は、この説明に従うと「物のあはれの限り」を感じさせる場面で誰・何が「あはれ」と語る「主体」であり、誰・何が情趣を起こす「もの」であるのかが怪しくなる。景清は諦念の「あはれ」ではなく後悔の「許してくれ」を叫んでいる。もしかしてこの場面を外から見ている観客が「主体」になり「あはれ」と独り言をしたくなるのか。その場合は何が「もの」になり、「場」の論理で皆を包摂するのか。社会と分離された「劇場」の論理を保護しようとした本居宣長の立場を調べながらその端緒を見つけたい。
2.2 本居宣長の「物のあはれ」:道徳と離れた文芸
本居宣長(1730−1801)は江戸時代日本の復興の道を自国の古典から発見し、「国学」を大成した文献学者・国学者である。14 彼は当時まで強く社会の基礎を構成してきた儒教と仏教などの「漢心」が日本の本質を乱れたといい、「自然を尊む」共通点を持った老子と荘子の思想まで外国のことだと排斥した。15 彼は『源氏物語』から「物のあはれ」を主題として発見する。14 彼は「この状況ではこう感じるべきだ」というのをしること、即ち「感動すべきの事に向き合って感動すべきの心を理解し、感動する」ことが「もののあはれ」を知ることだ14といい、鑑賞者に対して一種の秩序や流れに従うことを主張する。そして彼は抑圧的な「漢心」の勧善懲悪の道徳から脱して作品の中の深い感情をそのまま感じるべきだと強調するが、パク・ギュテはこの「世界観」の二つの弱点も指摘した16:本居は「物のあはれ」を知るだけで「いい人」に想定して責任なしの倫理を作ってしまう、そして「漢心」であればなんであっても拒否して全面的な「他者否定」を招いてしまうという。
この限界たちにもかかわらず、本居の「物のあはれ」論は文芸の「自律性」を尊重したという意味がある。彼は愛の物語、その中でも道理に外れるが仕方がない愛がもっと深い「物のあはれ」を生じるといい、『源氏物語』の空蝉・藤壺などの女性たちと会ったことを例としている。14この説明を受けると、近松があえて景清と阿古屋の禁じられた愛とその破滅を強調したことが「物のあはれ」に繋がったのが理解できる。光源氏が天皇の血統まで乱れた不敬者であるにもかかわらず彼の「物のあはれ」は傷つかないように14、景清の先行作品に見えた「悪人」阿古屋への勧善懲悪的な処断では「物のあはれ」を発生しにくいと近松は思ったかもしらない。この場面の本居的「物のあはれ」は「勧善懲悪」とは別の問題になるからである。しかし、本作のクライマックスを再び見ると本居的「物のあはれ」も説明しにくい要素がある。本居は「物のあはれを知っていると言いすぎるのも悪い」と述べ過剰な要素を拒否したが14、母親の阿古屋の子殺しと景清の叫びはあまりにも過剰である。そして本作では2人の主人公が相手に対して謝る場面があるが(上記引用の阿古屋「言訳なし」景清「許してくれよ」)、阿古屋のは夫の愛を取るため「建前」として演じた可能性があるに対して、景清の反省は本当の後悔しかないと思われる。「声を上げて」彼が泣くのが「物のあはれの限り」に直接連結されるのを見ると、一抹の道徳・反省が「物のあはれ」と繋がるのではないかと思われる。景清まで「許してくれ」を叫びかねない理由を解明するため、次の社会学的な接近をみよう。
2.3 社会学的「物の哀れ」:当代都市文化と観客共同体
パク・ギュテは物の哀れの観念は平安貴族文化の慣用表現、「世の中で決まっていることのあはれ、男女の出会いと別れのあはれ」17から17世紀中頃になって都市文化の「共通感情」に変わったと、社会的観点で「物のあはれ」の説明を試みる。4彼によると、まだ幕末のように都市空間が完成されていないままであった近世初期の市民たちは、伝統的家族文化から脱皮して1人になり、彼らの間の共同体意識は生じていなかった。この絶望、無力と緊張状態は「他人たちも痛みをもち寂しいのは同じである」という慰めで解けることになるが、近松は『世継曽我』と『出世景清』を通じて「謝り合う」感動を観客の心に注入して人気を集めたという。観客が感じたこの「仲間感情」4が「物のあはれの限り」の端緒になる。
景清の「許してくれ」はこの説明になって明らかになる。上演当時は「悪女を処断する英雄」の昔話だけでは寂しい観客への説得力がなくなり、近松としては道徳を浪漫的に飛び越え、強い愛と痛みを観客に与える必要が会ったかもしれない。反省と屈服を通じて「あの英雄も弱い人間である」という感覚が新しい連隊感情としての「あわれ」になり4、事件以後景清の二度目の牢入りの平静は人物間の、そして人物と観客の「連隊」を象徴的に見せる要素になれる。しかし、『出世景清』が本気で景清の人間性と「仲直り」を目指したとすると、景清が阿古屋の謝りを受け止めることもできた。その上に、浄瑠璃の最後に復讐心を消すため自ら目を掘ってしまう景清は、景清ー頼朝、景清ー阿古屋の葛藤が終局まで解決されない「悲劇」として近松がこの作品を作ろうとしたと暗示する。観客が主人公の廃滅と弱さを見たがるという少し病理的な観点も、私はこの解釈の惜しいところの一つであると思う。従って私はギリシャ悲劇の「カタルシス」概念をめぐる談論を通じて「物のあはれの限り」を解明したい。
3 カタルシスとしての「物のあはれの限り」
『出世景清』は悲劇である。18もちろん全ての場面が悲しい混乱に溢れているのではなく、主人公の景清は最後に反省・容赦をし、心の安定を取り戻す場面がある。しかし、この戯曲の核心は、頼朝に復讐して自分の愛と家族を守るという景清の意志がどうしようもない運命に挫折され、妻・子供・熱情を失うという悲しい結末にある。この運命と愛の構図は古代ギリシャの悲劇と共鳴するところがある。すでに山本吉之助は『出世景清』の阿古屋との共通点としてエウリピデスの悲劇『メデイア』の「嫉妬」の愛情論に注目した。12私はその上にソポクレスの『オイディプス王』との共通点も発見した。オイディプスは自分が父を殺し母と結婚するという予言から最大限逃げようとしたが、結局その予言が実現される。あまり絶望した彼は結局自分の目を掘ってしまうが、これは景清が運命に負けられ、痛みを無くすため自分の目を掘るのと同じ類であると思われる。アリストテレスは『詩学』で「悲劇の本質」を羅列しながら『オイディプス王』を例として使っているが19、悲劇を説明する彼の核心概念である「カタルシス」が本作の「物のあはれ」に繋がる可能性があると思われるので紹介したい。
「カタルシス」はその莫大な影響や用例にもかかわらず、原典である『詩学』には一回言及されたことが全てである。「(悲劇とは)憐憫と恐怖を通じてそのような激情(的事件)たちのカタルシスを遂行するミメシスである」という文句が参照のできる唯一の根拠になる20。定義も説明もなく登場したカタルシスは、以後ヒュームなどの疑問、即ち「人はなぜ否定的感情である恐怖と憐憫を持つ悲劇をあえて観覧し、肯定的である快を得るのか」という「悲劇の逆説」21の源泉になり色んな解釈をもたらした。この逆説は人気を集めた『出世景清』にも該当する。当時の観客が本作をどう鑑賞したかは想像しかできない。しかし景清が二度目の牢入りで「思ひをなし」にすることと上述の社会学的分析を見ると、景清の状況が観客の憐憫と阿古屋の奇行に対する恐怖を起こしたことは無理なく想定できる。その「物のあはれの限り」の直後全ての感情が解消されて「菩薩」になる景清(と観客)は、古代ギリシャ悲劇を見た観客と似ているカタルシスの「逆説」を体感したのであろう。
従って、「カタルシスはどこにあるか」という歴史的疑問はそのまま本作の「物のあはれはどこにあるか」に繋がり、前者に答えようとする試みは後者にも適用できる。キム・ホンはカタルシスに対する今までの解釈は三つに分類されると述べている。20 彼によると、伝統的なカタルシス解釈は①カタルシス(解消)が「観客」の中にあり、劇中新しく生じた恐怖が、観客自身が日常生活で持っていた屈託を振り返り、「洗い落とす」ため快になるという。しかし、この説はあくまでも観客を精神的な治療を要する病的状態にいると前提しなくてはならない病理的な観点である。この問題は上述の社会学的「物のあはれ」説明にも適用され、当時の幸せであり裕福な観客も本作の「カタルシス」ー「物のあはれ」を楽しめたことを説明し難くなると指摘した。そしてカタルシスー浄化が②「作品の中」、即ち人物間の葛藤の解消自体にある、③「詩人・作者」の心の中にあり彼が世界観を創る作用の中にあるという別説が登場した。キム20は③に従うが、私もそれに合わせて本作の「物の哀れ」が詩人・太夫の心情を称するのではないかと提案したい。
『出世景清』の場合、①あの新しい浄瑠璃を観る観客にも、②作中の「景清」にも一定の「哀れ」が残りそうである。しかし、私は本作の「物のあはれの限り」の本質は③あの世界を創造・演奏した「作者」の近松もしくは「太夫」の竹本にあるのではないかと主張したい。「物の。哀れの限りなり」は景清の台詞ではなく、あくまでも義太夫の音低い独り言であると見るのが正しそうである。あの文章の語り手の近松・竹本は、自分の世界観と感情を凝縮して景清の悲惨な運命の世界を「もの」として作り出した。この悲惨さが観客の日常に直接発生したとすると、彼は感動も中庸的「あはれ」も絶対に感じられなかったはずである。しかし作者が当時世界の特徴であった「寂しさ」と「英雄性の没落」を発掘し、上手に交わりこの悲劇を公演の形で「間接的」に観客に上げる。これによって観客は距離を持って「命の悲劇性を察する学びの喜び」20を得ることになり、人気を与える。その悲劇性を「教えて」あげる自分の役割の終わった景清は、後味なく、サッパリと悟って元の位置の牢に戻る。「あはれ」と低く嘆くのは嗚咽する景清でも、涙を流す観客でもなく、自分の手で残酷の世界を作り出した太夫・作家の分である。演奏者は、泣いては駄目だからである。
おわりに
桜の花が散らばすのを見て日本人は「物の哀れ」を感じる22という現代的「物の哀れ」論が、1000年間よく使われてきた全ての「もののあはれ」表現に適用できるのかに対しては、大きな疑問が残る。この問題意識を持ち、私は1685年発表のある浄瑠璃戯曲『出世景清』の頂点に登場する「物の哀れの限り」がどれほど当時の社会・文化・美的に独特な意味を持っていたのかを解明しようとした。近松門左衛門はこの「画期的」な作品18の「物のあはれ」を完成させるため、勧善懲悪な景清伝説のイメージをあえて消し、痴情の葛藤を深く強調した。そして彼は全てが終わった後の景清の心も別の方式で描き、景清は自分の悩みを全部消えてしまう。今まで提案されてた「物の哀れ」論として私が見つかった哲学的・倫理学的・社会学的説明は全て「あはれ」の由来を相当解明することができたが、私は最も重要なところであると思う「それで「もの」は何であり「あわれ」は誰のなのか」「なぜ近松はあえてプロットを変えたのか」の質問に答えるにはそれぞれ一定の疑問が残ったと主張した。
従って私は本作が当時の観客を対象とした公演悲劇であることに注目し、西洋の悲劇理論で大きな説明力を持っている「カタルシス」を本作の「物の哀れ」に似合う概念として提案した。『出世景清』に限って、「物の。哀れ」を絶感するのは登場人物でも観客でもなく語り手の近松・竹本だったとすると、「あはれ」が「カタルシス」となって、「あはれ」が悲しみを含むもっと広い範囲の感情であること・近松が当初の伝説のプロットを変えた理由などがもっと明らかになる。しかし、この「カタルシス」としての「物の哀れ」論も完璧なことではなく、①近松が「物の。哀れ」と間にピリオドをつけたこと②本作以外の「物の哀れ」の用例、特に和歌の表現にこの説明がどれほど効果的であるのかを探求することが課題として残る。1000年の時間にわたってたくさん伝われる他の「物のあはれ」を分析すると、また別の日本精神の緒が現れることに違いない。
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